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大幻想曲「幻の国」(邪馬台) (1970初稿)

鈴木 静一
Seiichi Suzuki (1901.3.16 Tokyo〜1980.5.27 Tokyo)

 作者は1901年東京に生まれた。幼少時よりオルガンを嗜み、中学時代には教師であった吉沢氏に作曲・和声を師事、A.サルコリの元で声楽家を目指すも師の勧めで断念し、ギターやマンドリンに手を染めた。後、作曲の才能をも認められ作曲活動を開始した。26歳の時には東京マンドリン協会が創設され指揮者となり、O.S.T主催の第1回作曲コンクールに「空」が2位入賞した。作品は23歳時に処女作『山の印象』を発表してから続けざまに多くの作品を世に問うたが、1936年36歳時に日本ビクター入社と共に斯界から一時身を遠ざけた。以後1965年に斯界に復帰するまでの間に、数百に及ぶ映画音楽や、流行歌の作曲を手掛ける。65年には旧友であった小池正夫の死をきっかけに斯界に復帰、以後7年間の間に、斯界の宝となる数多くの大作、小品、逸品を発表した。また戦前の作品についても改訂や改作を施して発表し、斯界のレパートリの拡充に寄与している。1970年代後半の学生マンドリン界を鈴木静一ブームが席巻し、学生サークル人口の増加と相まって全国的に演奏される事となったのである。我がコンコルディアにも青山学院大学や跡見女子大学、九州大学、竹内マンドリンアンサンブルなどで鈴木氏から直接薫陶を受けた部員が何人もおり、クラブ創設初期には重要なレパートリとなっていた。
 1980年5月27日、惜しまれながら永眠。病床にまで持ち込んで書き綴られたと言われ、作者がマンドリン合奏曲の集大成として起草していたであろう、遺作交響詩「ヒマラヤ」は、まさしく幻の大作となってしまったのである。
 本作品は1970年、九州大学マンドリンクラブの委嘱により作曲、1972年に終結部の変更や管楽器の追加などの改訂が行われた。上記のように作者は斯界復帰後の7年間にその作品のうち重要なものを作曲しているが、中でも1968年からの3年間で作者の重要な作品の殆どが作曲されている事実を見るとこの黄金の3年間には天からミューズの神が降りてきていたと実感される。特に1970年には本曲の他、「受難のミサ」「美しき川長良」「比羅夫ユーカラ」「クリスマス綺想曲」と作曲されていおり、驚くべき創作意欲の発露を感じる。本日の演奏は結尾部が異なり、ファゴットを含まない編成の初稿を用いて、現行版よりも一層荒々しい響きをお楽しみいただきたい。

謎の国邪馬台には、中学時代から感心を持っていた ー というより憧れていた。そして今、その憧れを音楽に託す機会を得た。私はもとより邪馬台については何の根拠もテーゼも持たない。ただ邪馬台を文書の上で伝える唯一の記録、漢の韓国魏志倭人伝から描いた幻想に過ぎない。私の幻想では邪馬台は彌生後期九州に郡立する諸民族の中心となった卑弥呼<ヒミコ>と呼ぶ巫女を女王とする一種族であり、そのヒミコは<日巫女>あるいは<日の御子>即ち日本書紀の神話が伝える天照大神とする。これは中学時代の歴史教師の示唆もあったが、これ以来私の幻想は邪馬台のすべてを日本神話に結びつけ、次第に育ったものである。

〜曲想〜 「帯方(朝鮮の中部)の南方遥の海上に倭と呼ぶ島国(日本)あり。百余国に分かれる中に邪馬台国、女王ヒミコを戴き、近隣を統率する」と魏志倭人伝は説き起す。曲はペンタトニック(五音音階)の導入部で始まる。これは太陽神としてのヒミコのイメージである。続いて現れるリズミックな旋律は邪馬台国の繁栄を描き、その上にこの幻想曲の主題を呈示し華やかに発展するが、やがて力を失い陰うつに変化する。これはヒミコが弟の乱行を厭い身を隠すことにより光を失った邪馬台国が、果てなき暗黒に没したのを悲しむ人民の嘆きである。
 次に神楽(かぐら)を連想させる鈴の音を伴う舞曲が現れる。これは失われた光ヒミコの帰還を求める人民が祭壇を設け、その前で一人巫女を舞わせる情景を表す。いわゆる<岩戸神楽>である。この舞曲は高潮する巫女の舞とともにはやし立てる人々の祈りが最高点に達した時、暗黒に閉ざされた空から一条の光が漏れる(導入部復帰)。ヒミコの帰還である。
 かくして邪馬台国は再び繁栄を取り戻すが平和は長く続かず、やがてヒミコが死にその弟が王位につくと(ティンパニーの強打)またもや暗黒に沈み、国内のみか近隣の国々まで動乱に巻き込み乱れに乱れる。遂に耐えかねた国民が建ち男王を退け、ヒミコの血をひく乙女を女王に迎えると不思議にも動乱は忽ち鎮まり(主題復帰)ここにゆるぎない国家としての邪馬台の歩みが始まる。日本建国である。
(以上作曲者による解説)

第40回記念定期演奏会より/解説:Yon