瞑想曲「夢の眩惑」
(1941)
ウーゴ・ボッタキアリ
Ugo Bottacchiari(1879.3.1Castelraimondo〜44.3.17 Como〜

 作曲者はマチェラータのカステルレイモンドに生まれ、同地の工業高校で数学と測地法を学んだが馴染まず、幼少より好んでいた音楽に傾倒していった。そしてピエトロ・マスカーニ(歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」で著名)の指導下にあるペザロのロッシーニ音学院に入学し、厳格な教育を受けた。師マスカーニからは直々に和声とフーガを学んだという。1899年にはまだ学生であったが、本歌劇「影」を作曲し、マチェラータのラウロ・ロッシ劇場で上演、成功を収めオペラ作曲家としてのスタートを切った。卒業後はルッカの吹奏楽団の指揮者や、バチーニ音学院で教鞭をとるなどしつつ、管弦楽曲、歌劇、室内楽曲、声楽曲、マンドリン合奏曲など数多くの傑作を表し、諸所の作曲コンコルソで入賞した。殊に「ジェノヴァ市に捧げる四楽章の交響曲」は金碑を受賞した。(この曲はその存在が早くから知られていたが、石村隆行氏の努力によって本邦にもたらされた事は記憶に新しい。)
 斯界へは多くの秀作を残しており、斯界の至宝「交響的前奏曲」、ロマン的幻想曲「Il Vote」、詩的セレナータ「夢!うつつ!」をはじめ、多くの合奏曲、独奏曲を残した。また渡伊中の石村隆行氏により埋もれていた歌劇の一部分(「セヴェロ・トレッリ」、「愛の悪戯」、「ウラガーノ」等1920~30年代の作品が多い)が編曲され、本国でさえ日の目を見ないにもかかわらず、熱心な本邦のファンの心をとらえている。そしてボロニアで発行されていた斯界誌「IlConcerto」の主宰者にもなり、1925年にはA.Capellettiのあとを継いで、コモのチルコロ・マンドリニスティカ・フローラの指揮者に就任し、プレクトラム音楽の華やかなりし時代の先導者であった。作品の中には小品も多いが、本曲を始めとする編成の大きな曲においては重厚壮大なロマンティシズムに満ちあふれ、夢幻的な着想によるものが多く、分割された高音部パートによる分奏の美しさは比類のないものであり、斯界に身を置くものであれば誰しも憧れを抱くものであろう。
 本曲は戦時中の1941年にシエナで行われた、作曲コンコルソで一位入賞した作品である。(尚、この年の第二位「英雄葬送曲」C.O.ラッタ、第三位「夏の庭」P.シルヴェストリいずれも過去当クラブで演奏されている)当時は1922年以来、独裁政治を続けてきたファシストが最強となった頃で、主催もファシストの一国家機関名であるO.N.Dの名のもとに行われたのであった。1940年と41年の二度に渡って開かれたこのコンコルソはいずれも大きな成果をあげて、多くの優秀な作品を生み出したが、枢軸国の敗戦により、これらの名作も深い眠りにつく事となってしまった。そして作者も遂に本曲の出版を見る事なく1944年に逝去した。時は移り1974年渡伊した同志社大学OBの岡村氏が、これらの名曲を保持するシエナのアルベルト・ボッチ氏に懇願し、そのコピーを譲り受け日本に持ちかえったことで、奇しくも当時の同盟国であった我が国で、時を越えてこれらの遺産が蘇る事となったのである。
 曲はマンドローネによる重厚な主題の提示によって開始され、徐々に高音部へ展開してゆく、ボッタキアリ作品によく見られる形式をとる。この主題は様々に形を変え、三連符と八分音符が交錯する伴奏パターンを縫って美しくも、狂おしい音の空間を造りだす。ハープが掻き鳴らす分散和音も非常に効果的であるし、マンドリンパートには独特な奏法を要求したりする書き込みも多い。演奏にあたっては一部指定のデュナーミクを意識的にデフォルメしたり、曲の格に見合う充分な間合いやテンポを重視している。
 曲名の邦語訳にあたっては、従来「夢の魅惑」とされているものをあえて「夢の眩惑」とした。これは美しく魅惑的な「夢」よりも本曲で描かれた「夢」はもっと時代を反映した例えようの無い、狂おしい焦燥感にも似た「何か」を感じさせる為である。(このような改題は過去にも立教大学の第十七回定期演奏会で指揮者鳥山氏によって行われている。)そしてその夢は曲の終結部では明るい未来を夢みつつはかなく、永遠の無の彼方に消えていく。繁栄の千年期の終末を迎えた現代の我々にとって、「夢」から覚める事は、またひとつ何か大切なものが失われていくまさにその瞬間を意味しているのではあるまいか。

第21回定期演奏会より/解説:Yon


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