英雄葬送曲
Epicedio Eroico (1941)
カルロ・オテッロ=ラッタ
Carlo Otello=Ratta (1888.9.24 Ferrara〜1945.10.30 Ferrara)

 作者についてはフェラーラに生まれ、フェラーラに没した作曲家という事以外に判明している事は少ない。第二次世界大戦のさなか、イタリアのシエナで1940、1941と二回に渡り、作曲コンコルソが開かれた。本作者の作品としては40年に「チュニジアのイタリア人」が第三位に、41年に本曲が第二位に入賞しているが、それ以外の作品についても知られていない。
 当時は1922年以来独裁政治を続けて来たファシストがその支配力を最も強めていた時代であり、前述のコンコルソも、ファシストの一国家機関名であるO.N.D の名のもとに行われたのであった。このコンコルソのうち第二回にあたる1941年には多くの名曲が生まれている事は斯界に身を置くものとして記憶しておきたいところである。(第一位にはU.ボッタキアリの『夢の眩惑』、第二位に本曲、第三位にはP.シルヴェストリの『夏の庭』というイタリアオリジナル作品の金字塔とも言える作品が集中しているのである)しかしながらこうした名曲の数々も枢軸国の敗戦により、深い眠りについてしまったのである。
 こうした埋もれた名作の数々を化かの地より持ち帰ったのは、本日数多くの作品解説に登場している岡村光玉氏であり、本曲や前述の入賞曲の数々もしかりである。氏はこれら名曲の数々を所持していたシエナ・マンドリン・オーケストラのアルベルト・ボッチ氏に懇願して、そのコピーを譲り受けたのである。(その後ボッチ氏は来日し、日本の印象をしたためた作品も発表している)
 本曲は第二次大戦中、枢軸国の重要な戦略上の拠点であった「トブルク」の陥落(連合軍との間で激しい戦車戦が行われたリビアの地方の名前で、両陣営の勝敗を決する山場であった。このトブルクの陥落により、イタリア軍は敗走を辿ることになった)によせる悲壮な鎮魂歌と言われている。
 曲頭には"Ai Valoroni caduti di Tobruk"(トブルクで没した勇者たちに)と記されている他、con dolore(悲痛に)、con bravura deciso(勇敢に、決然と)、通常、音楽の表現記号としては用いる事のまれなCadutato(暗く落ち込んで)、等という、激しい調子の表情記号が散りばめられている。なお、原題にある epicedio という語は episode と混同してとらえている解釈を見かけるが、正しくは古代ギリシア詩における「葬送歌」「哀悼歌」といった意味合いで、英語では epcedium となるので注意せられたい。
 本曲の解釈にあたってはいろいろな受け止め方があるようだが、催されたコンコルソの肩書や当時の世相を考えると、如何に芸術家の良心に照らしたとしても、平和への希求を歌った、壮大な讃歌だといった解釈ははなはだ疑問である。当時の社会的な背景や、政治的煽動の様子などは国家的なまでの狂信的なファッショへの流れである。平和維持の名の元に武力によって平穏を維持しようとする当時の世相はまさに現代の大国が行っている、国連の名のもとの平和維持とよく似たものを感じはしまいか。こうした中に出てくる主流におもねた作品に真の意味の平和が宿っているとは考えられないのは、現代も全く同じである。この曲は『軍靴の音のする平和を賛美した』特異な時代背景が生み出した産物で、そうした意味合いをしっかりと理解して演奏に取り組むべきだ。その意味合いを自分が生きる今の時代にてらして、自分たちの生きる意味を考え直していこうとする時、初めてこの曲は正しく理解されてその矛盾をさらけ出すことになるだろう。20世紀が終わりに近づいた今、私たちの時代はこの曲が『平和への賛美』だとまともに受け止められてしまうような時代になってしまっている。解答は出ないままである。

第27回定期演奏会より/解説:Yon


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