劇的序楽「細川ガラシャ」
(1968)
鈴木 静一
Seiichi Suzuki(1901.3.16〜1980.5.27 Tokyo)

作者は1901年東京に生まれた。幼少よりオルガンを覚え、父からは謡曲を仕込まれた。中学時代にサルコリより作曲と和声を学び、声楽家を志すが、A.サルコリの勧めによりギター・マンドリンを手にした。1922年には東京プレクトラムソサエティの創立に加わり、24年にはイタリアへ渡った。この頃マンドリン曲では最初の作品「山の印象」(後改作) 、「人魚」を作曲した。25年には東京マンドリンクラブを主宰、27年には東京マンドリン協会の創立指揮者となる。この頃オルケストラ・シンフォニカ・タケイ(OST)主催の第1回作曲コンクールで「空」(ヴェルレーヌに寄せる三楽章)が最高位入選。翌年にも「北夷」で最高位入選をはたした。その後日本ビクターに入社し、しばらくプレクトラム音楽から遠ざかり、東宝映画等の映画音楽に従事した。1949年にはフィンランドの大作曲家J.シベリウスより入門を許可されるが、多忙の為留学を断念した。その後1965年、旧友小池正夫の死去を悼み「カンタータ・レクイエム」を作曲し、斯界に復帰。その後4年間に「シルクロード」「スペイン第1〜3組曲」「失われた都」「火の山」「朱雀門」等の大作を立てつづけに発表、一躍斯界の第一人者となった。

 我がコンコルディアには青山学院や跡見女子大、九州大学、竹内マンドリンアンサンブルなどで鈴木氏から直接薫陶を受けた部員が何人もおり、クラブ創設初期には重要なレパートリーとなっていた。
 後年には作曲ペースは鈍ったものの、「パゴダの舞姫」や「バリのガムラン」などアジアの民族音楽をプレクトラム音楽に取り込み、独特の作品を残した。1980年、日本女子大MCにより「遠野郷」を発表直後に79年の生涯を閉じた。
 斯界に身を寄せる人間で鈴木静一の名を知らないものがいるであろうか?それほどまでに日本のマンドリン文化と同化し、作品の面で支えてきた人物は鈴木静一その人を於いて他にいない。遺稿の中には遥かな世界の高み『ヒマラヤ』を冠した交響詩が眠っているという。いつの日かこの作品が何かの形で愛好家の前にその姿を表す事を祈念してやまない。
 作品は多くが、木管、金管、打楽器等を含む大編成用に書かれており(これは70年代の学生プレクトラム団体が現在とは異なり著しく大所帯を抱えていた事が一因として挙げられよう。) 、指示通りの編成で演奏するためには70〜80名規模のオーケストラが必要とされる。近年では作者が思い描いていたであろう規模の演奏にはなかなか出会えなくなったが、その作品は日本人の感性に根ざした独特の世界を紡ぎだしており、愛奏されつづけている。また、独奏曲、編曲にも多くの作品を残している。
 細川ガラシャは天正年間、明智光秀の三女、玉として生まれ、16才にして細川忠興に嫁いだ比類なき美女と伝えられる。ガラシャの多難な生涯は本能寺の変に始まる。信長を倒した光秀は秀吉に討たれ、細川忠興も秀吉に仕える身となったが、反逆者としての悲命に彼女はキリシタンに走り、ヤスペデス神父より「ガラシャ」の聖名を受け信仰の道に入った。(ガラシャという洗礼名には『恵み』という意味が込められている。)しかし安らぎは得られず、秀吉からの求愛に苦しめられた後、邪宗門として捕方を差し向けられ幽閉の身となった。秀吉の死後は幽閉を解かれ、細川邸で暮らしていたが、石田三成と徳川家康の対立が激化する中、細川を徳川臣下であるとして人質となる事を要求する三成に対し、自ら門を閉ざした邸で、臣下に首を切り落とさせて、更に火を放つ事を命じ、燃え上がる焔の中に苦悩に満ちた生涯を閉じたのだった。
 曲はガラシャの悲劇的な生涯を暗示して始められ、戦乱の世を象徴する Allegroのメロディと壮麗な Andanteの聖歌を中心に展開される。途中静まった後、ガラシャのモノローグともいうべき木管のモチーフが不安げに現れるが、やがて再び戦火に巻き込まれていく。クライマックスではガラシャの信仰告白のように聖歌が高らかに再現されるが、三成の襲撃を思わせる Presto のメロディに押し流され悲劇的な最期を迎える。
 「散りぬべき時知りてこそ世の中の、花も花なれ人も人なれ」この有名な句は細川ガラシャが、苦難の生活を送りながらも自己の尊厳と人間愛を貫き通し、女性であることの誇りを守り、常に世の中の平和を祈り続け、波乱に富んだ生涯を送った事の証である。

第30回定期演奏会より/解説:Yon


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